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熱い。 ただ、ひたすらに感覚を支配するのは、熱。 身体が、熱い。 体温が上昇している、というよりは全身をめぐる血液の温度が上昇しているようだ。 身体が熱いだけなら、服を脱いだり冷たい飲み物を飲んだりすればいいのかも知れないが、血液の温度は下げ方はおろか、上げ方すらわからないというのに。 少しでもその温度を下げようと、冷たいコーヒーを喉に流し込んだ。 それは夏に『車でバトルをする』とい事を知ってから始まった。 それまで、車の運転は仕事の手伝いだけでたくさん、というのが正直な気持ちだった。楽しいと思ったことも、わくわくしたことも、まして興奮したこともない。 夏の蒸し暑い夜、あの人と、初めて『バトル』をした。 そんなもの、真剣になる値打ちもないもので、拓海にとっては遊びのようなものだった。 だから――5年間、雨の日も風の日も走り続けてきた道で、前を走るテールランプに追いついて、追い越すのは簡単だった。 簡単だったけれど、今にして思えば、その頃から違和感を感じていたのかもしれない。 追い越して初めて気付いた――後ろから自分を追いかけてくる圧倒的な存在感。 夜の闇の隙間に走る閃光のような鮮やかな黄色のボディと逃がさないと言わんばかりの刺すような視線。 背筋をぞくぞくとした悪寒とも快感ともつかないものが這い上がり、 血液の温度が上昇する。 それは、今までに感じたことのない、熱、だった。 「高橋、啓介」 バトルが始る前、そう名乗った男は、睨む様な目で拓海を見ていた。 それから季節が過ぎて、何の因果か、何かの縁か。 拓海は啓介と同じチームに入り、夜の峠でともに戦う同志になった。 プラクティスという名の練習走行が行われたある夜。 プロジェクトのリーダーである啓介の兄、高橋涼介は、その夜に限って姿を見せていなかった。 「なぁ、ちょっと走らねえ?バトルじゃなくってさぁ……」 「でも……それってマズくないですか、ね……」 このプロジェクトを初めるにあたり、一つだけ注意されたことがある。 『ダブルエースのバトルは禁止』 バトルは禁止でも、「一緒に走るだけならいいだろう」と啓介は言い訳がましく言った。 プロジェクトでダブルエースを張る二人がバトルする事は禁止されていたので、プラクティスが終わって皆が撤収した後や平日の夜に、こっそりと走った。 今夜もいつもと同じように誘われて、皆の姿がすっかり消えるのを待って、二人はマシンを並べた。 ウィンドウ越しに、目で合図。 リトラクタブルが上がって、誰もいなくなったアスファルトを照らす。 そしてゆっくりと、黄色いボディが誘うように走り出した。 その後を、拓海もゆっくりと走り始めた。もちろん、本気の全開走行ではなかったけれど、速度が上がり始めるのにそれほど時間はかからなくて、はたからみればバトルとも取れる速度域で二台は追走する。 しかし、後ろを走る拓海は、いつもきちんと安全マージンを確保していた。 もしも啓介に何かあっても、これならマシンを接触せずに止まれるという距離を置いて、追従していく。 それは啓介が後ろにいるときもそうで、FDとハチロクがある一定の距離以上に接近することはない。 しかし、――啓介と走るときはいつもそうだ。 黄色いFDが前にいても後ろにいても、感じずにはいられない。 一人で走るときには、絶対に感じない、『他』の存在。 それが、あからさまに自分を意識していることが感じられる。 だからだろうか。 汗も出ないのに、身体の内側が熱い。 他の誰とバトルをしても、こんな風に熱くなる事はなかった。 相手からのプレッシャーやステアリング操作、アクセルワークのために物理的に熱くなって、息が上がることはあったけれど、それとこれとは全く違う。 内側はふつふつと。 緩やかに沸騰するように、熱が篭ってゆく。 そんな熱を感じたのは、生まれて初めてだった。 黄色のFDのテールランプを追いかけ、ラインをなぞる。 逆に後ろからぴたりと付かれて追いかけられる、ラインをなぞられる。 ラインをなぞるという行為は、どこか女性の肌を触れる指先を想像させた。柔らかく、変化しやすいそのカーブを、そっと傷つけずになぞらなければならない。 少しでも引っかかれば、速度は落ちる。 少しでも無理をすれば、するりと逃げていく。 しかし、完璧にそれをなぞることが出来たとき、マシンは身震いするほど美しい挙動を見せることがある。 長すぎず、短すぎないドリフト。 深すぎず、浅すぎないボディの角度。 わずかに上がる白煙とタイヤが軋む音。 滑らかなグリップライン。 その二つのバランスが悪くなっても、綺麗なラインは描けない。 2台のスキール音と、エギゾーストが控えめに重なる。 心拍数が上がって、血液の温度が上昇する。 ステアリングを握る手が熱い。 吐く息も熱い。 前後を入れ替えて、5、6本そうして走ると、熱くって頭がはっきりしなくなる。 熱があるのかもしれない、と、本気でそう思ほどで、決まって最初にギブアップするのは拓海のほうだった。 パッシングを3回。 それが拓海のギブアップのサインだった。 自販機でコーヒーでも買おうと、駐車場にハチロクを停めた。 すると、それを追いかけるかのようにハチロクの隣に、黄色いFDがするりと身を寄せて停まった。 クールダウンのの低いアイドリングの音が、辺りの空気をそっと震わせる。 拓海が自販機の前で呆けていると、啓介が車から降りて、隣に立った。 通った鼻筋や金色の髪が自販機の人工的な青白い光に照らされているのを垣間見てしまい――拓海はさりげなく視線を外した。 啓介は缶コーヒーを2本買って、そのうちの1本を投げて寄こした。 「俺のおごり」 「ありがとうございます」 「……悪いな。いつも付き合わせて」 「……?」 啓介はブラックの、拓海は砂糖もミルクも入った甘いコーヒーを啜りながら、こうして少し話をする。 「お前、今日も仕事だったんだろ?……疲れたような、熱っぽい顔して……」 「いえ……そんなことないです」 口下手なせいもあり、会話はいつも長くは続かない。 それでも、不思議なことに居心地は悪くなかった。 穏やかな沈黙の中、啓介は、紫煙を燻らせながら、コーヒーをごくりと飲む。 喉仏が緩やかに上下する。 濡れた唇を、ぺろりと舌で舐め取って、そしてまた煙草を咥え、先端をオレンジ色に光らせる。 そんな様を、拓海はハチロクに凭れてそっと盗み見ていた。 どれだけそうしていただろうか。拓海と向かい合う格好で、FDのボンネットに浅く腰掛けてコーヒーを飲んでいた啓介が、不意にぽつりと言った。 「何か、熱くねぇ……?」 俺だけかなぁ?と小首を傾げながら視線を投げかけてくる。 啓介の指に挟まれた煙草は、もう短くなっており、そろそろ二人きりの時間が終わることを告げている。 「いつもさぁ、お前と走るとすんげぇ面白くって、熱くなっちまうんだよな。身体が」 「あ、それは、俺も……です」 啓介はニッとまた悪戯っぽく笑った。 「お前と走った後ってさぁ、なんか身体が熱くって、ムラムラしてさ……。家に帰ってアニキがいたりすると、おまえ目がヤバいぞ……って言われんだよ」 「……どんだけヤバい顔してるんですか」 笑って誤魔化し、うつむいた。 しかし、その実拓海はとても驚いていた。 啓介が拓海と全く同じ状態になっていただなんて、想像したこともなかったからだ。 身体が熱くて、帰ってからもあまりよく眠れなくて。 ピントがずれたカメラのファインダーのように、何をどうすれば思考がはっきりするのかもよく分からない。 しかし、ぼうっとした頭でうまくしゃべれる自信もなかったので、それは口に出さず、代わりに冷たい缶コーヒーを喉へ流し込んだ。 啓介は立ち上がって、飲み終わったコーヒーの缶を足元にカコン、と置いた。 咥えていたタバコをアスファルトに落とす。 それがいつもの、さよならの合図だ。 啓介が1歩、歩み寄る。 (もう帰るのかな……?) そう思っていたら、さらに1歩近づいてくる。 (……え?) とうとう、思うように動けない拓海の目の前まで来た。 少しつり上がった猫科の獣を彷彿とさせる切れ長の瞳。 その透明で野生的な光を宿した瞳から、――視線が外せない。 数センチ高い長身を屈めて、耳元に唇を寄せ、囁く。 その啓介の声に、粟肌が広がっていく。 「なぁ、どこがヤバいって、ここがヤバくねぇ……?」 その瞬間、拓海のジーンズの股間を何かが這い、同時に背筋をぞくぞくとした何かが駆け上がっていく。 何が起こったのかと、うつむいてそこへ視線を移す。 自販機の明かりに照らされて、蠢くものが見えた。 「…………!」 そこに這っていたのは、さっきまでFDのステアを握っていた、節くれだった啓介の手だった。 |