脈 -2-


研究室であんな話の水を向けられたことで、涼介は、これほど一日が果てしなく長く感じたことはなかった。
時折、意味深に投げかけてくるあの場に居合わせら学生達の好奇な視線や
ゲイの男からも何か話しかけたそうな視線を感じたが、冷ややかな一瞥を投げ、這這の体で一日の病院研修を終えた。
普通なら受けなくてもいい疲労を忌々しく思いつつ、涼介は大学病院の敷地から出た。
もう、日没は過ぎ、見上げると空は赤から紫へ澱んだグラデーションを見せていた。
黄昏は凪いでいたが、大気はなんだかホコリっぽく、秋だというのに澄んだ空という印象はなかった。
時折、病院の敷地にそびえる大きな銀杏の木から黄色く染まり始めた葉が揺れながら落ちる。
地面に漂う落ち葉がうるさく、何もかもがうっとおしく見えた。
――あの男に、あんなことを言われたからか……。
とにかく、涼介は人にかまわれることをんでいた。
そんな不快感を抱きながら、陰鬱な面持ちで涼介が学生用駐車場へむかって独り歩いているところ、
学生用駐車場に停めた白いFCに、模糊とした人影を見つけた。
あの男が、自分を待っていたのか……と思うと、背筋に嫌なものが走る。
さっきは悪かった、でも本気なんだ……と言われたら、FCでひき殺すかもしれない。
滅入りそうな気分で近寄れば、見知らぬ若い男だった。
近づいて、人影の輪郭がハッキリしてくるにしたがって、
その男からは、啓介が昔つるんでいた仲間の一人か?と思わせる、どこか崩れた出で立ち
馴れ馴れしさ、根拠のない自信、若さだけの傲慢さが滲み出ているのを感じた。
涼介は、男にかまわずキーを取り出してFCに乗り込もうとした。
しかし行く手を塞ぐようにドアの前に無言で立ちふさがり、上から下まで舐めるように視線を絡み付けてくる。
――今日は、どこまで行ってもついてないのか?
涼介は手にしたキーをポケットにしまい、わざとらしく溜息をつきながら男に顔を向けた。
「何か用か?オレは、初対面だと思うが……」
「ああ、オレもアンタの事、小耳に挟んだことはあったけど、会うのは初めてだ
あんた、プロジェクトDのリーダーで、群馬大学医学部のエリートで、イケメンの高橋涼介さん、本人だろ?」
たいそうな肩書きを、さも恭しく並べ立てているが、男の喋る声には、嘲る色が含んでいた。
涼介も、なんだ、その肩書きは……と苦虫を潰したような顔をするが、お構いなしに男の視線は自分の顔に突き刺さってきた。
「ま、表じゃ品行方正な顔しておいて、裏じゃ何やってるか、わかんねぇってヤツ、いっぱいいるけど、
アンタはそんなツラしてるよな。しかもソレの首位にいる『キング』って感じか」
色んな異名が自分に絡まっていることをよく知っているが、大学にいる時はいたって普通の医学部生であることを心がけている。
だから、よりによって不快な気分に陥った大学の帰りに、 
見知らぬ男に待ち伏せされて、こんなことを指摘されて、ただでさえ鬱屈していた気分が、よくなるわけはない。
もちろん涼介には、こんな因縁をつけられるような謂れもなく、さっさと話を片付けて、この場から遠ざかりたかった。
一度しまいこんだ鍵を掴むためにポケットに手を入れ、面倒くさそうにこう言った。
「だから……なんの用だ」  
「ああ、そうだった。危うく忘れるトコだったよ……  
ま、あんたに言ってもしょうがないことなんだけど、一応耳に入れておこうと思ってな……オレのささやかな親切心ってやつ?」
そう、前置きをしてから、男は話を始めた。  
日暮れに出会ったからか、男は酷くすすけて、色あせて見えた。  
暗く、時間すら澱んで動かない夜がそぐう匂い、粘ついて濁った匂いがした。  
早く、とにかく早く話を終えたいと涼介は思った。  
そう思う涼介の意志を無視して、男はゆっくりと、そしてどこか残虐性を帯びた声色をたたえて、話を始めた。
「オレ、女がいてさ。結構、そいつ、顔とか身体とかイケてるんだよ  
けど、その分ちょっと身持ちが悪くって、オレもその辺苦労させられてるんだけどな……」  
頭の悪い話しぶりに、涼介は、まだ話を始めて間もないというのに、うんざりした。  
前置きの長い話は得てして内容もつまらないものが多い。
オマエはこんな話を聞かすために、ココで待ち伏せしてたわけでもないだろ、と言わんばかりに  
涼介は、溜息で話の先を催促すれば、コホンと咳払いをして、男も本題に入った。  
「まぁ、そんなことはどうでもいいか……で、オレの女がさ、峠に女同士でクルマで遊びに行った時に  
プロジェクトDのダブルエースって名乗る男にナンパされてたわけなんだ 
それがさぁ、高橋涼介っていうイケメンと合コンできるって言われたみたいで、あいつってば携帯番号をその男に教えちまったんだよな〜
そしたらソイツ、合コンなんてする気もないのにしつこく電話かけてきて、あれこれとちょっかい出してさ〜
ま、アイツもバカだから……ソイツに良いように弄ばれちまった訳
で、オレも黙ってらんねぇ性質だし?女に浮気されてムシャクシャしてたし、どんな男か見てみたかったから
さっきダブルエースの片っぽを呼び出して、仕返ししといた……女騙すタイプに見えないってのが武器だな、アリャ……」
「仕返し?」  
話し終えた男は、悪びれず、にやりと笑っていた。  
最初は全く興味のない内容を聞かされ、涼介は早々に切り上げて帰ろうと思ったが、
プロジェクトの名をだされ、さらには、嫌な方向に流れる物騒な話に、涼介は眉をひそめた。
「ああ、たっぷり仕返しさせてもらった。まぁ、チームのリーダにそこまで管理責任はないから、
アンタにまでは危害は加えないから安心していいぜ  
けど、一応リーダーであるアンタにも、その報告ぐらいはしようと思ってココで待ってたわけ……
まあ、確かにアンタはイケメンだし?頭もよさそうだけど、チームのメンバーの素行管理とかはからっきしなんだな
メンバーに勝手に名前を語られて、いいようにされてるってことだろ?
それとも、ああいう悪行も、全部アンタの指導なの?そうだとしたらすげぇ管理能力、指導能力に、ある意味感心するけどな
オレもメンバーに入れて欲しいぐらいだ」
男は、どこか見下した眼で言い放った。
――自分の女の素行も管理できない男が何を言うんだか……  
そう言い返したかったのは山々だが、男の『仕返し』という物騒な物言いに、涼介は唇を閉ざしたままにした。
最近、史浩がしきりに言っていた、プロジェクトDのニセモノの存在と悪行……。
そいつらの仕業だということはすぐに察しがついた。  
それに、ニセモノが、この男の女に何かしでかしたことはたとえ事実なら、仕返しされるのも当然だと思う。
所詮人事で、自業自得だ。  
しかし、仕返しされたのも、ニセモノの方だろうか?  

反論をしてこない涼介に事実を認めたと思ったのか、男は高飛車になって
「これからはこんなことが起きないように、チームメイトの下半身もしっかり管理するんだな
それとも、アンタのお下がりでもいいから、女に飢えないように、定期的に分けてやりな」
「ああ、ソレが必要なら考えてもいいが、出会ったばかりの男に、
携帯番号を教えたり、簡単に足を開く安っぽい女は、残念ながらオレの周りにはあまりいなくてな……」
涼介は吐き捨てるように言った。  
しばらく2人の間に沈黙が流れた。  
それっきり口を開こうとしない涼介に業を煮やしたのか、男はもったいぶるように一個の携帯を差し出してきた。
「これ、アンタにやる。アンタからソイツに返しといてくれる?  
オレとしては、女になんかもう手を出せなくなるぐらい酷いことをソイツにしてやってもよかったんだけど
それなりにいたぶって満足したし。っていうか、これ以上触りたくなかったし、見たくもなかったしな
オレが異常性癖者で、変態だったら、ソイツはもう女抱くどころか、車の運転とか、出来なくなってたかもしれなかったけど……」
あざけるような声色に、涼介は眼の前でちらつかされ、携帯を鉛の塊のように感じつつ受け取った。

ニセモノに仕返しをしたなら、ソレはそれで自業自得だから、何をされようが哀れむいわれはない。
しかし、もし本物のダブルエースを捕まえて仕返しをしたなら……と考えた。
ちんけな男に声を掛けられ、簡単に自分の携帯ナンバーを教え、呼び出されるままついて行ってしまうバカな女が
峠にいることは涼介も知っている。  
そんな女と付き合うようなこの眼の前の男に、あの啓介がやられるわけがない。
もし、仕返しという被害にあっている人物がいるとしたら……。
もう既に、ニセモノによって騙された女の、とばっちりを食っている拓海のほうが、可能性は高い。
拓海は、例え自分がしていないことでも疑いをかけられたら、相手の話をちゃんと聞こうとする。
啓介の様に、まだるっこしい交流を最初から捨て、勢いや感情で解決するような奴じゃない。
涼介のガードは鉄壁で、啓介の攻撃は過激で、拓海のクッションは……友好的に近寄ってくるものには柔軟だった。
ソコを突かれたなら、事は現実味を帯び、深刻かもしれない。
しかし、拓海だって、こんな男に、させるがままなぶられるようなヤツではない。
やはり、何かの間違いであって欲しいと願った。
冷たい携帯を手にし、あれこれと深慮している涼介に、帰ろうとしていた男が振り返り、思い出したように付け加えた。
「そうそう、それから、これな……」  
チャリという音を立てて、男はジャケットのポケットから、  
この群馬大学から一番近いビジネスホテルの名前とルームナンバーが刻まれたキーフォルダーを取り出した。
そして、涼介の上着のジャケットの胸ポケットに嫌な笑みを片頬に浮かべながら押し込んだ。
ストン、と落ちてジャケットの左側が重くなる。
「ソコに、あんたの仲間がいるから。早く助けに行かないと、やばいんじゃねぇ?
ま、その携帯に入ってる画像を見てから行った方が、いいかもな。アンタも心の準備が必要だろうし……」
涼介は、携帯なんていくらでも同じものが出回っているというのに、この携帯は、見れば見るほど見覚えがある。
そう、拓海が持っている携帯と同じだった。
涼介が、手の中の携帯に眼を落としている隙に、男は脇をすり抜けて歩き始めた。 
それから、数歩歩いて、ふと思い出したように振り返って  
「オレも犯罪者になりたくないから、後腐れない付き合いにしようぜ。証拠写真はそれだけだから安心してくれ
好きなやつは好きかもしれねぇけど、そんな画像取っておいても、見たくもねぇしな……オレは。アンタはどうかな?」
涼介は、握っていた携帯から眼を上げた。  
ぬるぬるとした笑みをしていた。  
随分長い間見詰め合っていたのか、眼が乾いて痛かった。  
瞬きをするのを忘れるほど、ちんけな男を冷ややかな視線で睨みつけていたようだ。
そんな激しい憎悪を投げつける涼介に、男は僅かに戸惑う視線を泳がせ、慌てて背を向け遠ざかっていった。
少し早い乾いた木枯らしが、駐車場を吹きさらし、大学病院にある銀杏の葉を涼介の立つ砂利の上に飛ばしてきた。
そのどこか薄汚く感じる日暮れの景色の端には、矮小な背中がかすんで消えた。
  

涼介は夕闇の中、冷え切ったFCに乗り込み、エンジンもかけず携帯を開いた。
メニュー画面から画像を液晶に呼び出した。   車内の天井にバックライトが広がり、液晶を覗き込む涼介の心配げな白い顔を青く曇らせた。
    
呼び出した画像は、その冷たい液晶の画面いっぱいに、いきなり萎えた男性器を映し出していた。
医学生だけに、その辺の人間よりかは、こう言ったものに見慣れてはいるものの、なんの予想もしていない視神経には刺激が強い。
感情よりも認識が先にたった。
それから、追いついてきた感情によって、指先に針を刺されたような衝撃が走り、不快な顔をして携帯を少し遠ざけた。
次の画像を呼び出せば、なにやら尻の割れ目と思わせる桃色の肉の隙間。 
画面いっぱいに肌と、乾いた肉の割れ目だけが見えた。  
ソレは、尻とは思えないほどキレイな肌だったのにもかかわらず、涼介は尻と判断した。
それは、その割れ目と思しき隙間から、どぎつい色のコードが延びていたからだ。 
嫌な予感がより強くなる。 
しかし、まだ判断を下すには早い……と、涼介は疑惑を晴らす余地を求め、次の画像を呼び出した。 
そこには、太ももにちぎったガムテープで、簡単にはローターのスイッチが切れないよう、そして身体から取れないよう、
幾重にもグルグルと巻き付けられている後姿が現れた。 
さっきの画像より少し引いたところから撮られた痛々しくも衝撃的な姿に涼介は息を呑む。
もちろん、これだけで誰かとう判断は出来ず、気は進まないものの、次の画像をめくれば 
ジーンズと下着を下ろされ、腕は背中にねじり上げられた状態で縛られた拓海とよく似た背カッコの後ろ姿が映し出された。
しかし、涼介はダブルエースのニセモノ情報を集めてはいたけれど、入手していたのはナンバーや住所で、
そいつらの姿かたち、顔を知るわけもなかった。
だから、この画像だけでは、この人物は拓海ではなく、拓海によく似たニセモノという可能性もまだ捨てきれなくて
すっかり冷え切った指で、震えながらもう一枚呼び出した。 
  
そこには、痛々しく猿轡さるぐつわを噛まされてもなお、
眼の前に持ち出されただろう携帯のカメラレンズにむかって、激しい怒りの炎を燃やし睨みつける拓海の激しい顔が写った画像が現れた。
「藤原……っ」  
涼介は、声に出して叫んでいた。  
きっと、あらぬ疑いをかけられた拓海は、ひたすら男の話を聞いて、そして必死で誤解を解こうとしたに違いない。
可惜なことに、この思い込みが激しく愚かな男は、それを責任逃れや言い逃れととり、増長したのかもしれない。
こんな、仕返し……。
心臓がズキズキと痛み、脈がずくずくと体中を震わせ、こめかみが小刻みにうねる。 
無言で、握り締めていた携帯を折りたたみ、ナビシートに放り投げた。 
重症患者が運ばれてきて、まず自分が何をしたらいいかパニックに陥り、オロオロする医者や看護師がいたりするが
自分だけはそうならないようにと、心がけてきた。
ソレがこんなときに、こんな形で役に立つとは思わなかった。
とにかく、とにかくすぐにFCを発進させるべきだと涼介は思った。
涼介が取った行動は、拓海が無残な姿で取り残されているだろうホテルに向かってFCを発進させることだった。


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