脈 -3-


いつもはなんとも思わない赤信号が、こんなにも長く感じるなんて……。
思わず涼介はステアリングを叩きそうになった。
ちょっとした減速に、不必要にブレーキを踏む車が憎く思える。
たかが1kmに満たない距離が、夕方の帰宅ラッシュと重なって、緩やかな渋滞を引き起こしていたため
100kmにも200kmにも感じた。
こうしている間にも、拓海の身体と心の苦痛は増してるはずだ。
頼むから、少しでいいから、その苦しみを早く終わらせてやりたい、だから……そう心に叶いながら、涼介はアクセルを踏んだ。

キーフォルダーに刻記されていたホテルは、涼介が通学で使う路線沿いにあったため、
建物の裏手に駐車場があることもよく知っていた。
ようやくその建物に辿り着き、涼介にしてはかなり慌しくFCを停めた。
駆けるように正面玄関まで行き、一息ついてから自動ドアで中に入れば
玄関ホールは広く、フロントは何人かの客に対応していて、さりげなく通り抜けることができた。
涼介はポケットから渡されたキーのナンバーを取り出して、掌の上に乗せて見る。
プラスティックの塊に刻まれたナンバーを暗唱する。
そのフロアめがけて歩いた。

これが悪い冗談であって欲しい……
心のどこかで救いを求めていた。
重苦しい顔でドアを開ければ、悪戯に成功して喜ぶ啓介がいればいい……
このときばかりは、そんな不謹慎なことを願った。
しかし、あんな男を使ってまで、自分を騙そうとする人間がいるわけも、そのメリットも見つからない。
期待は出来ない望みを一瞬で捨て、涼介はキーと同じナンバーのドアを探した。
探しながらも、そのへ辿り着いたらどうするべきか……と絨毯を踏む足が少し躊躇い始めた。
最初はとにかく早く助けに行くべきだ、という神経からの一方的な命令で、このホテルのあの番号の部屋まで
ひたすら目掛けてやって来た。
しかし、あの携帯の画像の通り拓海が性的に悪戯されているとしたら……
あの姿のまま部屋に独り、放置されているだろう。
オレに助け出されたはいいが、心に傷は出来ないか?
これに凝りて、プロジェクトを降りるなんて言わないだろうか?
もし、そんなことを言わずとも、男として手痛い行為をされた状態の姿を指導者に見られたという後ろめたい思いを抱え、
これからプロジェクトに参加するのか?
助け出すのは自分じゃない方がいいかもしれない……。
でも、それなら誰が助ける?
そんな疑問が湧く。
史浩か、松本を呼び出して頼んだ方が藤原のためになるだろうか?
いや、これ以上新たな目撃者を増やすことはない。
さらに、助ける側の精神的ダメージを考えると、ソレに耐えうる適役が自分以外にいるわけもなく、
あれこれ思惟をめぐらせば、やはり自分が一番の適役だという結論に達した。

ホテルは、ちょうどビジネスマンのチェックインの時間帯だったからか、人手が足りていないのか
涼介は従業員に呼び止められることなく、渡されたキーと同じナンバープレートが貼られたドアの前に辿り着くことができた。
廊下は、宿泊客の歩く音、ドアを開ける音で常に何かが動いて騒がしかった。
涼介は握り締めた鍵を取り出して、鍵穴に差込み、ゆっくり鍵を開けた。
廊下を通る誰の眼が光っているか分からないという危惧もあって、出来るだけ細い隙間から身を滑らすように室内に入った。
室内の床は、廊下と同じ安っぽい絨毯が部屋の隅まで敷きつめられている。
涼介は肩の辺りに意識を集め、踏み込む足に力を入れた。
できるだけ機械的に、ココで見る光景を受け入れようと、頭の中を医師という立場に懸命に切り替えた。
ドアを静かに閉め、わずかばかりの通路を通れば、狭い部屋の壁にくっつくようにベッドがあった。
ドアの外と違って、この部屋は外界から切り離されたように閑寂として静かだった。
ホテルの部屋というものは、大抵照明はぽつぽつと天井にいくつか付けられていて、あとは間接照明のみで薄暗い。
この部屋は、天井から明かりだけが入り口に背を向けてベッドの上に横たわる人物を黄色い明かりで照らしていた。
そして、涼介の眼がレンズになって拓海を捉えた。
それは、すざまじい勢いでズームアップするような加速度
マシンに乗って攻めている時のようなGを眼球に感じるほどのスピード感を感じた。
心の中でブレーキをかける。
呼吸を整えようとする。
そして、唇を噛んで一度眼を伏せた。
再び眼を開けた時に、違う光景であって欲しいと願いながら、ゆっくり眼を開ければ、
忘れ去られたように、ベッドの上にいる拓海の後ろ姿は、やはり変わらなかった。

拓海はドアには背を向けて、力なく横たわっていた。
柔らかい髪はベッドの硬そうなカバーの上にたゆんでいる。
トレーナーの上から、後ろ手に結わかれた腕が痛々しい。
下半身を覆うはずのジーンズは、下着ごと膝までズリ下げられていて
白い腿は静脈が青く浮き出て走り、まあるい尻がこちらを向いている。
ベッドに身体を沈め、ビクリとも動かず、まるで息をするのもこらえているようだった。
男でも、こんなにも色が白くて、きれいな肌をしたヤツもいるんだな……不謹慎にもそう思ったのは
一般的思考を遮断し、ありのままをただ受け入れるだけの観察眼だけを開いていたからかもしれない。
しかし、見ないようにしていた。
一番最後に、視界に入れたのは、尻の割れ目、それも肛門がある辺り……その位置の肉と肉の間からは、真っ赤なコードが延びていた。
ソレを見た瞬間、涼介は怒りで眼の前が本当に暗くなった。
ぐらりと足元が歪むような思い、頭の皮膚が縮まって、呼吸までもが苦しくなった。

――何で藤原がこんな目に遭わなけりゃいけないんだ?

涼介はいまだかつて、その外見の精華、家柄、己の努力によって得た能力に対して、憧憬されたり、怨まれることはいくらでもあった。
それはもう、数え切れないぐらいというよりも、常に、と言ったほうが適切だろう。
しかし、自分に劣等感を向けられても、それを気に病んだりもせずけんもほろろに跳ね返すものだから
弟や、付き合いの長い史浩に矛先が向くこともそれなりによくあった。
もちろん、あの二人も心得たもので、そう言う輩を相手にすることはなかった。
涼介に近しい人間は、一方的に因縁をつけてくるようなヤツに『相手してやる』という感情が見事に欠落していたのだ。
しかし、拓海は涼介が初めて出会った、人の心の妬みや悪意や歪みの深さを知らない、一般的に育った普通の人間だった。
その無欲恬淡で一番無防備な人間を狙ったというのか?
ダブルエースという存在に憧れ、その地位に辿り着く経緯を省いて、苦労も知らずになりきる男がいて。
そのニセモノにすら嫉妬する男もいた。
拓海はそのニセモノに間違われ、誤解を解くために呼び出しに応じ、敵愾心や嫉妬心を知らないがゆえに、こんな眼に遭ったのだろう……。

肩が怒りで震えた。
コブシを握って、掌に爪が食い込む痛さが尋常じゃなかった。
胸は動悸を早め、涼介の呼吸を苦しめ暗い靄に一瞬、視界を奪われた
今、オレは心臓が冷静な状態じゃない……脳への血液が足りないのかもしれない……
冷静になれ、とにかく今は冷静になって考えろ……こんな状態じゃ、助けの役目を果たせない……
涼介は、なすこともなくただ怒りに震えるだけの自分に気づき、再び医師の精神に戻るよう言い聞かせた。

部屋に視線をめぐらせ、この部屋で何があったか観察をする。
拓海はこんな姿であったけれど、男の精を吐き出した後の感じる淫らな空気の残滓を
この部屋からは微塵も感じ取れないことに、涼介は僅かに安堵した。
一番危惧していた最悪の事態を回避できて、僅かに冷静な気持ち戻ってきたからか、聴覚がこの部屋の空気に馴染んだのか。
無音の部屋だと思っていたが、ぶーんとハチの羽音のような音が途切れなく鳴り続いているのが聞き取れるようになった。
これは空調の音ではなく、拓海の体内から出ているコードの先で震えている小さな淫猥な塊のせいか。
その音が際立ってくるように思えた。
涼介はその音の根源を想像し、ゴクリと唾液を飲み込んだ。
医者になったら、すごいものを見ることがある。
先輩の医者から、同性愛者の男が性行為の最中に腸内に異物を入れて取れなくなって救急車で運ばれてきた、と
とある患者の話を聞かされたことがあった。
確かその時は、ビールの瓶だった……と聞いた。
親が働くクリニックでも、そういった患者がごく稀に運び込まれてくる。
生玉子を入れた……とか言っていた。
いくらなんでも、拓海はソコまでひどいことはされてないだろう……これは願いも含めてそう思った。
それに、当事者に比べたら、自分が眼から受けるこの衝撃は大したことはない。
そう自分に言い聞かせて、涼介は音を立てないようベッドに近づいて静かに「藤原?」と声を掛けた。
涼介が入ってきたことに気づかななかったのか、びくっと衝撃を露わにしたのは柔らかい髪。
腕を拘束されているためか、ゆっくり仰け反るように身を起こして振り返る見慣れた後姿。
髪がサラリと後ろに流れ、柔らかそうな頬が動き、その先に見える面輪には、赤く充血して腫れている瞳があった。
泣いて腫れたような跡でもあったが、殴られて出来た傷もそこにあった。
打撲傷か?
この傷跡は……1回じゃない。
数回……。
拓海の自由を奪い、逆らえない状態でいたぶってなぶったのだ。
涼介は息を吸い込んでから、低い声で言った。
「大丈夫か?」
そっとその傷を指先でなでる。
拓海は、猿轡をかまされていたため、声を発することは出来なかったが、
もともと大きな眼を大きく見開いて、突然現れた涼介の存在に驚愕しているように見えた。
さらに悲愁と動揺の色をも浮かんだ瞳は零れ落ちそうだった。
そんな眼と数秒視線が絡んで……そして、すぐにほどけた。
拓海が眼を閉じたのだ。
拓海は見られたくなかったのだろう、こんな『襲われました』というような姿。
二人の間に、尖ったガラスの破片のような視線の余韻が漂って散った。

助けを拒絶し、突き放すような拓海の横顔は静寂で、音のない部屋は時が凍てついている。
しかし、拓海の体内からは静かな静かなモーター音は途切れることなく発せられていた。
体内に押し込められているものが今も拓海に苦痛か快楽を与え続けているのだ。
その音と、拓海の苦しげな吐息に似た呼吸音ばかり涼介の耳は痛ましくも拾い上げてしまう。
とにかく、意識して下半身を見ないように視線を拓海の顔に向けたままゆっくり近づいて、まずは猿轡を解いた。
猿轡の下は、口元も切れて、赤く腫れていた。
「……涼、介さん…………」
拓海は口元を痛そうにして、掠れた声でこう呟いた。
視線は逸らされたままだ。
「大丈夫か?」
コクンと頷いて、大きく息を吸う。
「あの……どうして、ここが解ったんですか?」
拓海は俯いたまま息を吐いて、言った。
「大学の駐車場に男がいた。オマエの携帯と、ここの部屋のキーをオレに渡して帰った」
「……そう、でしたか」
「オマエはニセモノと誤解されて、人違いでこんなことをされたんだな……?」
「すいません……オレ、呼び出されて、あの男の話し聞いてたら……」
「顔を殴られたな。眼は見えるか?歯は大丈夫か?」
ようやく口で呼吸できた開放感か、大きなため息を幾度もついた拓海は「……なんとか……」と掠れた声で答えた。
殴られたよりもひどいダメージを被っているのは分かるが、涼介はあえてソレには触れず、気持ちもよそに移し
ひたすら顔の傷を心配してるような態度を貫いた。
「藤原……オマエ、あんな男に屈しないようなヤツだと思ってたぜ
どう見てもこの顔の傷は腕を縛られて、一方的に殴られただろ?なんでおとなしく縛られたんだ?殴られもしたんだ?
理不尽なことをされそうになったら、殴りかかるようなやつじゃなかったのか?」
涼介は話しながらも、次にすべきことを探した。
そして、まずは背中で結わかれた腕の紐を解くことにした。
仕草でソレを拓海にわからせる。
背中を涼介に向けるような体制で、涼介はきつく、硬く結わかれた結び目に指を掛け始めていた。
そうしながら『藤原って高校ん時、部活とかしていたのか?』そんな話題を啓介や松本と語っていたことを思い出した。
何でこんな状況で、そんなことを思い出すのだろう。
切羽詰った時の精神状態とは、こういうものなのかもしれない……と、涼介は、ナカナカ解けない紐に悪戦苦闘しながら思う。
『ムカつく先輩がいて、気がついたら殴ってて、それで退部したんです……』確かそんなことを拓海が言って
『顔に似あわねぇ奴』なんて皆が溜息を吐いたが
そんな部分があるから、アレだけの走りを見せられるのかもな……と、涼介はその時思った。
だからこそ、柔弱な感情に溺れでもしない限り受けないであろう、こんな酷い仕打ちを拓海が受けたのか、不思議だった。
「……だって、アイツ……」
拓海がボソリと言った。
「どうした?」
「アイツ言ったんです。オレ呼び出す時、もし来なかったら、次のターゲーットは涼介さんだって……
群大の医学部で、走り屋やってるなんて、すぐ見つけられる
おとなしく言う事聞かないと、アイツ、酷い仕返しを涼介さんにする……って……大学にいられないようにしてやるって言ったんです
元々ニセモノのしたことだし、話せば誤解も解けるかと思ったから、オレ……呼び出されて……アイツに会ったんです
でも、本当の事をどんなに説明しても、言い訳にしか取ってもらえなくて、オレが説明すればするほど怒りだして
『これじゃ大学に行かなきゃならないな』って、アイツ言い出して……」
拓海の言い分を聞いて、涼介は一瞬指が止まり、黙り込んだ。
苦しく、胸の迫る思いを味わった。
そんな脅迫があったのなら、この拓海の姿も確かに理解できる。
「オマエは、オレを守ろうとして、こんな目に遭ったのか?……やってもない罪を着せられて……殴られて、しかもこんな……」
「すいません……」
「謝ることじゃないだろ。藤原がしたことは、藤原らしい正義なんだろうが、
あんあ話の通じないヤツじゃ、どうにもならなかったってことだな」
拓海は恥ずかしさなのか、屈辱なのか、ベッドに突っ伏して俯いたままだ。
「でも、アイツはさっきオレのところにきて、もう憂さは晴らしたみたいなことを言っていた
藤原はオレを守り通したって事になる……すまなかった。こんな目にあわせて」
拓海は顔を伏せたまま、顔を横に振った。
ゴシゴシと、摩擦音がした。
「……悪ぃ……もう少し、待てよ。今、楽にしてやるから」
そう言ったはいいが、ようやく紐が解ける兆しが見え、一瞬安堵するが、ご大層にその下からは引越しの時に使うような、
もしくは、電気屋がコードを束ねる時に使う結束コードが出てきた。
「藤原……紐は解けたが、その下に結束コードでキツク束ねられている。コレは、刃物がないと解くことは不可能だ……」
涼介の報告に、拓海はうな垂れる。
涼介は、次はどこを解けばいいんだ?精神的苦痛か、肉体的苦痛か……と思案する。
よっぽどの性癖嗜好者でない限り、誰も好き好んでこんな異物を体内に入れ
ましてや第三者にその姿をさらし続けることはかなりの苦痛と羞恥を伴う状態だろう。
――とにかく、ここは身体から異物を取り出して楽にしてやるべきか。
簡単に解けそうもない腕のコードは後回しにし、まずは体内に入っている異物を取り除く事を、涼介は瞬時に決断を下した。
――藤原にとって苦痛かもしれないが、医療行為と思わせれば、いい……。
そう自分に言い聞かせ「恥ずかしくないぜ」と言えば意識していると思わせてしまうから、無言でそのコードに手をかけた。
ローターを入れるために、何かオイルを塗られたのか、尻の肉の隙間がテラテラとした粘着質の液体が滴り、ぬかるんでいる。
コードを引き抜くようにすれば、ヌルと手ごたえを感じた。
「っ……」
これが予想外の行為だったのか、体内に埋め込まれたモノと繋がるコードを引っ張られ、
ベッドの上、辛そうな身体を支えるため抱きかかえた拓海の肩に力が入ったのが分かった。
いきなりな行為に戸惑っているのだろう。
しかし抗議の声は発せられはしなかったため、涼介は拓海から出ているコードから手を離すことはしなかった。
拓海は体内から異物を出す拒絶を、何と言葉にしていいか分からず、懸命に逃げるドアを探すように
違う方法を選んでいたのかもしれない。

ずずず……と涼介がコードを引き抜こうとすれば、思いのほか奥まで押し込められていたようで、腸壁を擦る感触が指先に届いた。
どんなモノを入れられたのか知らないため、勢いよく抜けば、デリケートな腸壁に傷をつけるかもしれないと危惧する。
極力ゆっくりとコードを引っ張った。
――どこまで力をこめるべきか?
――どれだけ長い時間に人は耐えられるんだ?
――ここは一度インターバルを置く方がいいのか?
いくら医学生とはいえ、そんな知識が備わっているわけもなく、
こんなときアイツの話をもっと真面目に聞いておくべきだったか……と
あの研究室でのやり取りを思い出したのは、焦っている自分を誤魔化すためだ。
恐る恐ると5センチほどコードを抜いた。
力を込めた分、スムーズに動くことで、体内に入れる異物にしては抵抗の少ない
いわゆる性玩具としては小さく目で丸みのあるローターというものが挿入されているのだろうと判断した。
しかし、涼介は拓海の身体を気遣って、一度コードを引く手から力を抜いた。
拓海は息を殺しつつ肩を上下にしている。
――異物を挿入され、やはり身体が辛いのだろうか?
――それとも、羞恥に耐えているのだろうか?
――早くしてやらないと、身体も精神もキツイだろう。
涼介は一端インターバルを置いた手に力をこめ、少しだけたるんだコードを人指し指に2回巻いて、そっと引き抜こうとした。
ギュウと手ごたえを感じ、腸が入り口に近く、何か湾曲した部分にでも引っかかったかと思ったが、
ソレは拓海が下腹部に力を入れたからだった。
「ん……」と発せられた声が妙に艶めいて涼介の耳に届いた。
「や……もう、やめてください。ソレ、オレが出すから、腕を先ほどいて……下、さい」
途切れ途切れに唇から発せられる声はかすれ、眼は涙をうっすらとたたえていた。
「藤原、この腕を縛っているコードは、刃物でないと切れないんだ。今、ココにそんなものはないし
とにかく藤原の身体の負担を取り除くのが先だと思う。恥ずかしいのかもしれないが、オレを医者だと思って我慢してくれ」
覗き込む涼介の眼に拓海は合わそうとしない。
濡れたまつげを伏せ
「はさみ、フロントで借りてきてください。腕の紐、切るだけでいいです
後はオレがやりますから……オレ、独りにしてください。独りになりたいんです……お願いです」
と訴える。
藤原の気持ちを優先すると……と、涼介は思慮する。
その言葉のまま、拘束だけを解き、当人でなければ解らないと言うのに、どこかで聞いたような上滑りする言葉で慰め、
独りにしてくれと言われるがまま、部屋を後にしていいのだろうか?と
きっと拓海は、次に涼介に会った時、塞いだ様子も見せず、奥ゆかしい笑みをたたえ
「こないだはありがとうございました」とでも言うのだろう。
涼介がどんなに懸念の視線で拓海を見ても、微笑んで「オレ、もうあんなこと、忘れました」と言い返してくるだろう。
プロジェクトでは今まで通りに、いや、今まで以上にひっそりと、そして後ろめたい分どこか無為に耐え、朗らかに振舞いそうだ。
しかし、身体の傷は癒えても、心の傷はそう簡単には癒えるわけがない。
己の愚かさと甘さを責め、悔しさを心の深遠で押し殺し、あの男だけでなく涼介にまで醜態をさらしてしまったことを悔やみ、
身を切り裂くような羞恥に苦しみ、秘密を握られておののく。
そんな態度をこの先抱える拓海を想像し、涼介は胸を痛めた。
『誤解でした』『人違いでした』『藤原拓海は何の非もありません』とわざわざ言って歩くことも出来ず
ニセモノを見つけ、誤解を解き、事が解決しても、拓海にされた仕打ちの事実は、溶けてなくなったりはしない。
どんなことをしても、この日、拓海に起こったことを、記憶から拭い去ることは不可能なのだから
その記憶を共有する涼介が拓海に近づけば、きっと、拓海はリーダとして認識しておきながらも
涼介のことを心のどこかで拒絶することまで容易に想像がついた。
拓海は今日のこの出来事を遮蔽する。
拓海は今日ここで感じたことを隠蔽する。
本当は燻って忘れられないものを、拓海は頑なに独りで飲み込むのだ。
何があっても表層に出さず。
涼介は自分がこの立場だったらそうするだろうし、拓海もきっとそう言うタイプだと思うから……。
二人の間にある『エースドライバー』と『チームリーダー』という関係に
『助けられたもの』と『助けたもの』という関係も加われば、壁はきっと厚くなる。
それが、誰にも今までと何の変わりもしない態度と映るのだろうが、涼介だけは補いがたい喪失感を抱え
きっと、二人はそれ以上にもそれ以下にもならない、平行線をたどる関係を続けることになる。
恥辱をさらした後ろめたさ、見られたくなかった姿……
見てはいけなかった姿を見てしまった気まずさ……は、痛切な感懐となって胸を噛み
諦観にも似た感情を抱いて眺めるか、互いにソレをなかったことと否定し、よそよそしく接するだけ。
それを回避することは、今を逃したら、もうないだろう。

藤原の言う通りにして、腕を解いてこのまま放っておく……そんなわけには行かない。
それに自分は医者になるんだろ?
この腕の中で、苦痛に苦しむ患者を放り出せる医者がどこにいるというのだろうか……。
いや、例え自分が医者の道を目指してなくても、今までの拓海をどうしても取り戻したかったから
今の拓海から離れることは一欠けらも考えられなかった。


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