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それから何回かの夜を越えて月は満ち、満月の夜になった。 大きく輝く真円の月は、自ら光を発している訳でもないのに、煌々と光を放ち峠を照らしていた。 今夜のプラクティスは終わり、峠の駐車場を右往左往する影もだんだんと数が減ってきた。FDに寄りかかって立つ啓介の影はタバコをくわえていた。弱く白い月の光では、細くたなびく煙までは影を落とさない。 どう、すっかな……。 啓介は短くなったタバコを見ながら考えていた。 涼介と拓海は、ハチロクに乗って早々にここを後にした。何でも涼介は早く大学に戻らねばならない、とかの理由で明日も仕事だと言う拓海のハチロクの助手席に収まり、帰っていった。 ウィンドウを下げ、啓介に向かって「お先に失礼します。」と言って頭を下げた拓海の頬がほんのり赤かったような気がした。白い月光を浴びても赤く見えるのだから、実際は相当赤いのだろう。 涼介が隣に座っている、ただそれだけが拓海の顔をあんなにも火照らせるのか。それとも、ハチロクがたどり着いた先で起こるであろう交わりをすでに想像してしまっていたのだろうか。自分の兄はその存在だけで、拓海の頬だけでなく、服に隠された華奢な体もちりちりと焦がすように火照らせているのだろうか。 啓介はタバコをアスファルトに落とした。消されない火がジジ…と音を立てて燃えている。アスファルトを焦がすように見えたオレンジ色のタバコの火を、啓介は靴で踏んでもみ消した。 2人がここから出て行ったのは小一時間も前の事だ。 そろそろいいかな、と啓介はFDに乗り込んだ。 この峠の麓には原色のネオンで飾られたラブホテルが並んでいる。涼介が「藤原とうふ店」の文字が入った今ではこの界隈で知らない走り屋はいないと思われるほど有名になったあのハチロクで、まさかそんなところに入るとは思えなかったけれど万が一という事もある。拓海がどうしてもと強請ったとか、勝手にそこの駐車場にステアリングを切ったとか。 下品なネオンに照らされたまま、主のいないハチロク。できるなら、啓介はその光景を見たくなかった。啓介は時計をチラリと睨むと、キーを回しFDを眠りから起こした。 ウィンドウを半分くらい下げ、まだ後片付けをしながら話している松本やケンタに声を掛けた。 「じゃ、俺もそろそろ帰るわ。お先。」 片手を上げて挨拶をしたら、ケンタが「お疲れ様でした!啓介さん、来週も来るんですよね?」とキラキラと眼を輝かせて話しかけてきた。拓海が涼介を見上げる瞳と重なる。 「…あぁ、そのつもりだ。」 じゃぁと啓介はFDのアクセルを踏み込んだ。ゆっくりと駐車場を出て行ったFDがノーズを向けたのは、登ってきた時とは反対の方角だった。 誰も居ないワインディングロードを啓介とFDは滑るように走っていた。吹け上がる事のない優しいエギゾーストが山肌の木々に吸い込まれる。あまり通ったことが無かったが、こちら側からも反対側を回って麓に降りられるはずだった。 月が見ていた。 風に吹かれて梢を揺らす木々も、ところどころ傷ついたり凹んだりしているガードレールも、啓介が操る太陽のような眩しい黄色の車体も。 月は、考え事をするように頬杖をついている啓介の横顔も照らしていた。 啓介にとって、涼介の恋人である拓海は、自分にとっても性的な対象になってしまった。彼らの情事を壁越しに聞いてしまった夜、ベッドの中で啓介は認めた。 実の兄、涼介の情事の片鱗を覗いたのは別にそれが初めてではなかった。 涼介とて思春期になれば異性に興味が出てきたのだろう。しかも、自分から何もしなくとも次から次へと女が向こうから寄ってくる。涼介が自宅に連れ込んだ女の喘ぐ声が、隣の自分の部屋まで漏れ聞こえてくる事もあった。さすがに繋がったところを目撃した事は無かったが。 壁越しに聞こえるわざとらしい女の喘ぎ声や、涼介の部屋のドアの隙間から見えた、女の服の合間からこぼれた柔らかそうな乳房は、同じように思春期にあった啓介の性欲をも刺激した。 それを満たす為に、啓介もまた言い寄ってくる違う女を抱いた。その時付き合っている女がいてもいなくても、抱く女に不自由する事は無かった。 兄、涼介と同じように女を喘がせて、柔らかい乳房に顔を寄せて、暖かい肉の中に自分の性器を埋めて、組み敷いた女を蹂躙するように烈しく抱いた。 今思えば、手淫を覚えた猿のように滑稽だった。 ほぼ毎日のように女の体を抱いて、揺さぶって、薄いゴムの皮膜の中に射精する。同じことの繰り返し。飽きるほど繰り返し、その時は何かを征服したかったのかもしれない。自分の与える快楽に酔いしれて、あるいは酔いしれるふりをして、纏わるように熱い目で見上げていた女達。今になっても啓介の脳裏を掠めるほど印象に残った女はいなかったように思う。 その時は、涼介が抱いていた女に欲情したのではなく、啓介は同じように柔らかい肉体と自分の体の一部を埋め込む器官をもった他の女に欲情したのだ。 ところが拓海に関してはどうだ? 拓海に対して啓介は欲情し、触れてみたいと思い、乱れさせてみたいと思う。しかし、他の男に対してそういう感情は募らなかった。 女を抱くのも悪くは無いと思う。女はいい匂いがして、柔らかくて、喜んで蜜を溢れさせて啓介を受け入れる。女の体より啓介の体のほうが大きくて見た目は女をまさに「抱いている」と思ったが、繋がった部分に関して啓介は「抱かれている」と思った。 暖かい肉に包まれて、その中を行き来して自分の性器を擦り、最後は込み上げるように射精する。頭が一瞬真っ白になる感覚。 拓海の体は、どうなんだろう…?数センチしか違わない身長の自分達が抱き合って、果たして拓海は「抱かれている」と思うのだろうか?自分のペニスを拓海は「抱いて」くれるのだろうか?アニキのペニスをどんな顔で「抱く」のだろうか? そんな事を考えながら啓介は、ほとんど外灯のない薄暗い道を下っていった。すれ違う車は1台も無く、他のエキゾーストも聞こえない。誰もいないからこそ、啓介は拓海の事を考えていた。 遠くに自動販売機の明かりが小さく見えた。 月の光しか射さない闇の中に、ちかちかと揺らめく人工的な明かりを見つけて、啓介は何だかほっとした。このまま薄暗い峠道を走っていたら、何を想像してしまうか分からなかった。おそらく行き着くであろう先の想像の形は何となく分かっていたけれど。 啓介は缶コーヒーを買う為にその自動販売機の近くにFDを停めた。 雑木林の切れ間から遠くに見える夜景が綺麗だった。煌く夜景のはるか上に月が佇んでいる。自分の淫らな妄想とは対極にあるような、そのすがすがしい景色を眺めて頭を冷やそうと思い立った啓介はFDのエンジンを切った。 FDから降りて、ポケットの小銭をまさぐりながら自販機の前に立った。 カタン、と音を立てて落ちてきた缶コーヒーを、拾い上げて体を起こそうとしたとき、ぎくりとして啓介は眼を細めた。 自動販売機の奥にはさほど広くは無いが駐車場が広がっていて、その奥に車が息を潜めるように停まっていた。 白く冷たい月光に照らされたハチロク。 啓介は手に持った缶コーヒーを落としそうになった。 まさか、こんなところに……? さっさとずらかったほうがいい。啓介は本能的にそう思って踵を返そうとした。 と、その啓介の視界の端に、もう1台の車が映った。見た事もない白いセダンで、フロントガラス以外は濃い色のスモークが張られている。ハチロクから少し離れたところに停まっているその車には人の気配がしない。同じようにハチロクからも人の気配はしない。 辺りは夜の帳が何もかもを覆い隠して、自分以外に近くに人が居る気配は全くなかった。 体中の産毛が逆立つような、いやな予感がした。 とうにエンジンを切って冷え切ったような2台の車が、なぜか啓介の気を引いた。 涼介は拓海とひっそり逢瀬を楽しむつもりだったのなら、どうしてハチロクの中にいないのか。近くにホテルや休めるような場所がありそうには見えないし、2人が絡み合う音も聞こえない。壁越しに隣の部屋まで聞こえるくらいだ、これだけ静かだったら啓介の耳に何かしらの音が聞こえて来てもおかしくない。 時間と場所を示し合わせたように、ハチロクから遠くも無く近くも無い場所にとめられているもう1台の車がなぜか気になる。 何か…トラブルでもあったのだろうか? 拓海のハチロクは目立つし、それに乗っていたのは涼介と拓海。今やすっかり有名になってしまった2人。 涼介が一緒なら、最悪の事態は免れるだろうが…。 啓介は月の明かりを頼りに駐車場を見渡した。そして、あのビデオを見たときの事を思い出した。 最初は、拓海が誰かに拉致されて暴行されているのだと思った。 啓介の背筋を冷たい汗が流れ落ちた。ぞくりと体が震える。 それが本当の事になったら…?しかも、実の兄、涼介までも巻き込んで。 拓海の嗜好を知った誰かが、このプロジェクトを邪魔する為に行動を起こしたのだろうか?そして、たまたま一緒に居た2人がそいつらに捕まって、今、この近くに居るのではないかと思った。 啓介は静かにハチロクに近づいて、窓から中を覗き込んだ。やはり、誰も居ない。もしそこに2人が居たら、FDの音を聞いた時点で何かしらアクションを起こしていたはずだ。 涼介がハチロクから降りてきて「さっさと帰れ。邪魔するな」と邪険に言われたり、拓海が真っ赤な顔をしてぺこりと頭を下げたり。そんな反応が想像できる。 ハチロクのボンネットは放熱しきった後で冷たい。しばらく前からハチロクはここにいたんだ。 啓介は持っていた缶コーヒーを持て余し、とりあえず足元のアスファルトの上に置いた。ポケットからタバコを取り出してくわえ、先端に火をつけた。一息吸い込んで、吐き出した煙は風に流されてなびいた。 その風が吹いた風上のほうから、微かに悲鳴のような声が聞こえた。 何だ…? 啓介は水で薄めた墨のような色の闇の向こうに眼を凝らした。耳を澄ませた。木々の葉が擦れて立てるノイズのような音に混じって、何かが聞こえる。 それは、とても誰かと誰かが抱き合って上げる甘やかな声には到底聞こえなかった。 啓介の耳には悲鳴のように聞こえた。心臓がやかましくなっている。 くそっ!聞こえねぇ… 啓介は懸命に耳を澄ませ、視線をめぐらせる。そして、やっと見つけた。 暗くてよく見えなかったが、駐車場の奥、白いセダンの後ろから細い道が続いていて、脇に木製の看板が立っていた。 『展望台 これより1キロ』 走り寄って啓介が見た看板にはそう書かれていた。 |